Home / BL / 天符繚乱 / 第十三話 冠履倒易

Share

第十三話 冠履倒易

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-10-13 11:27:58

 |乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って、|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、山雲のかかる険しい華陰山へ到着した。

 今日は日が所々に当たり、気温はそこまで低くはない。

 天候が変わらないうちに、墨余穏と師玉寧は|三神寳《さんしんほう》が保管されていた廟へと歩みを進める。

 廟の周りの荒れ具合を見る限り、誰も足を踏み入れていないようだ。

 静けさ漂う廟の前に到着した二人は顔を見合わせ、その廃墟のような廟の中に足を踏み入れた。

 すると入ってすぐ、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の足元に、枯葉のように色褪せた呪符が落ちていることに気づく。

 それをさっと拾い、表裏を交互に見遣ると、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず眉間を寄せた。

「ねぇ|賢寧《シェンニン》兄。これ見て!」

 先に歩いていた|師玉寧《シーギョクニン》は足を止めて振り返り、|墨余穏《モーユーウェン》が頭上にかざしたその呪符を流し目で眺めた。

「やっぱり俺の呪符だよ。|徐《シュ》殿の家にあったのと同じやつ」

「ったく、一体何が起きてんだ〜?」と、独り言を言いながら、墨余穏は何か痕跡がないかその周辺を見渡した。

 |師玉寧《シーギョクニン》は壁に触れながら、眉間に皺を寄せる。

「お前の呪符を持っている奴が他にもいるということだ」

 |墨余穏《モーユーウェン》は床に刻まれた文字を見ながら続ける。

「なるほどね。それで、俺の呪符を使ってここを壊したってことか」

「恐らくな。だから言っただろう。自分の呪符は必ず回収しろと」

 |墨余穏《モーユーウェン》は唇を一文字に引き結び、大きく鼻から息を吐いた。説教じみたことを言われても、意図的に放置した記憶はない。先日の黄山で妖魔を倒した時は、仕方なく置いてきてしまったけれど……。それはそれだ。

 死んだ間に盗られたのだろうか?

 それとも、死ぬ前にこの目の前の水仙玉君に恋煩いを起こして、好きでもない女と無理矢理寝てやり過ごしたあの時や、酒に酔って『師玉寧』と叫びながら暴れまくったあの時に、紛失してしまったのだろうか。

 廟の薄暗い天井を仰ぐように苦い記憶を辿りながら、墨余穏はこの回収できない事実を泣く泣く受け止める。

「そうだよな。だから掟なんだよな。……待てよ。ってことは、そういうことか! 俺の呪符に俺の魂魄を封じ込めた奴が居るんだ。だから、俺の特殊な呪符を勝手に使ったことによって、その反動で持ち主の俺も同時に甦ちまったんだ! そういう事だろ? |賢寧《シェンニン》兄!」

 何かを閃いたかのように言葉を勢いよく捲し立てる|墨余穏《モーユーウェン》とは反対に、|師玉寧《シーギョクニン》は冷静沈着といった様子で「あぁ」と頷いた。

 墨余穏は続ける。

「でもさ、俺の呪符を使える奴なんて相当俺を熟知してる奴だぞ? それとも、俺の知らない間に鳥鴉盟以外の邪教でも増えたのか? こんなの、余程の力のある奴がやってるとしか思えない」

「あぁ。恐らく、その大きな力を持つ者は、鳥鴉盟と突厥どちらとも手を組んでいる。だが……」

 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言って、躊躇うように言葉を詰まらせた。

「どうした?」、と|墨余穏《モーユーウェン》は言うが、師玉寧は「いや、何もない」と口篭る。

 何か思うところがあるのだろうか、と墨余穏は師玉寧の憂いな

 表情を見過ごさなかったが、敢えてここは聞かなかった。

「……ならいいんだけど。それにしても、呪符如きでここが崩れるなんて、余程天台山の力は弱くなったんだな」

「……仕方がない。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》も、だいぶお年を召された。あのお方のお力が弱まれば、自然と守護力も衰える。何もかも永遠に続くものなどないのだ……」

 |師玉寧《シーギョクニン》から、どこか悲壮感が漂う。

 まるで、永遠にあると信じていたものを失くしたかのような、そんな悲しさを含む顔色だ。

 安易に踏み込めない壁がいつも師玉寧にはある。

 近くにいる墨余穏ですら、その壁に触れる事はできない。

 |墨余穏《モーユーウェン》は気を取り直し、さっき見つけた大篆門の呪符に、誰かが触れた痕跡がないか呪文を唱えて問答した。

 すると、|徐李方《シュ リーファン》の時と同じ青い火花が、バチバチっと音を立てながら飛び散るではないか。

 床に落ちた残り火を足で消しながら、墨余穏は確信を得た。

「恐らく、徐殿が言っていた|黎明《レイメイ》という人間が関わっていることは間違いなさそうだよ。同じ光だ」

「だろうな」

 |師玉寧《シーギョクニン》はあたかも分かっていたかのような口振りで話し、ひとり入り口の方へ向かって歩いていく。

「えっ、どこ行くんだよ」

「帰る。もうすぐ暗くなる」

 |墨余穏《モーユーウェン》は「ちょっと待ってよ〜」と、|師玉寧《シーギョクニン》の後を追いかけた。

 二人は印を打っておいた道を滑り落ちるかの如く降り、無事平地に辿り着く。山を降った頃には、夕陽が頬を紅く染めていた。

 帰り道、|師玉寧《シーギョクニン》は何故か厳しい表情を浮かべていた。口数は減り、|墨余穏《モーユーウェン》の問いには「うん」や「そうか」しか言わない。

 飽き飽きしてきた|墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》の肩を人差し指でつんつんと突き、幼い子供のようにちょっかいを出す。

「どうしたんだよ、|賢寧《シェンニン》兄〜」

 すると突然、歩いていた|師玉寧《シーギョクニン》が立ち止まった。

 墨余穏は「ん?」と師玉寧の方を振り返り、「どうした?」と尋ねる。もしや、怒らせてしまったのではないか……、と思った墨余穏だったが、師玉寧は憂いを帯びた顔を墨余穏へ見せた。

「|墨逸《モーイー》。何かとてつもない大きい者が動いているかもしれない。もしかしたら、|青鳴天《チンミンティェン》以外にも、お前の命を狙う者がいるかもしれない。お前はまず、自分と自分の呪符を守る护身符をちゃんと持つんだ。しばらくは寒仙雪門に身を寄せていろ。いいな」

「……う、うん。|賢寧《シェンニン》兄の側に居ていいなら、どんなけでも居るよ」

 急にどうした? と思いながら、|墨余穏《モーユーウェン》がそう言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は急に愁色な表情をする。

 |墨余穏《モーユーウェン》は一瞬戸惑ったが、いつものように白い歯を見せた。

「大丈夫だって、|賢寧《シェンニン》兄〜。俺はもうどこにも行かない。だって俺は……」

 (賢寧兄のことが……好きだから……)

 |墨余穏《モーユーウェン》は咄嗟に、他の言葉にすり替えて最後まで言おうとしたのだが、結局言葉は口元まで降りてこず、笑って誤魔化した。

 墨余穏が少し顔を赤らめていると、|師玉寧《シーギョクニン》がその場で背中を向けた。

「乗れ」

「どこに?」

「背中だ。|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使う。お前はまだ連続で使えないだろう」

 そう言われた|墨余穏《モーユーウェン》は天にも昇る心地で、抱擁するかのように背中に飛び乗った。

「わぁ〜い、ありがとう〜、|賢寧《シェンニン》兄〜」

 そう言いながら|墨余穏《モーユーウェン》は自分の顔を|師玉寧《シーギョクニン》の背中に擦り付ける。

「おい、ちゃんと乗れ。落ちるぞ」

 墨余穏は師玉寧の首元に両手を掛ける。師玉寧の背中は大きくて、逞しくて、温かい。初めて|豪剛《ハオガン》の胸に抱かれた、あの忘れられない温もりに似ていた。

「ねぇ、今日こそ一緒の布団で寝る?」

「黙ってろ。舌を噛むぞ」

 調子に乗って冗談めかした言葉を|師玉寧《シーギョクニン》の耳元で囁いたが、本人には全く響かず、むしろその思いを躱すかのように師玉寧は恐ろしい速さで走り出した。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
Eve郁
調査デートの回! 甘えたの墨余穏くんと、鋭いツッコミの師玉寧様……...いい組み合わせですね〜! 余穏くんのヤンチャ歴史と恋心、深まる謎と考察! とてもお腹いっぱいな回でした...また次も楽しみにしております...
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 天符繚乱   第二十一話 緑琉門

    「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」  |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ

  • 天符繚乱   第二十話 栄穂村

     |墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬

  • 天符繚乱   第十九話 鳥鴉盟

    物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑

  • 天符繚乱   第十八話 金杭州

     |墨余穏《モーユーウェン》は胸の痛みを隠しながら、「そっか」と無理矢理笑みを作った。気まずくなるのが怖くて、墨余穏は更に言葉を続ける。「一緒に過ごせるといいね、その人と。もし、その人と|賢寧《シェンニン》兄が結婚したら、俺はちゃんと玉庵から出て行くから安心して。あ、もう出てった方がいいかな? |金王《ジンワン》先生に診てもらったら、そのまま俺は違う所へ行くよ。俺は|賢寧《シェンニン》兄が居なくても、どこでも生きていける」  鼻の奥がツンとした。 本心じゃないことを口走り、目縁がほんの少し濡れ始める。 墨余穏は師玉寧に見られないように、後ろを振り返って黒い袖で目縁を拭った。 すると、師玉寧はずっと瞳を揺らしながらこちらを見ている。「ん? どうした? |賢寧《シェンニン》兄」「……お前にも、好いている者がいるのか?」 言おうかどうか迷ったが、|墨余穏《モーユーウェン》はそれとなく答えた。「俺? あははははっ。そうだね、いるよ。死ぬ前からずっと思いを寄せてる人が。でも、その人は高嶺の花みたいでさ。ずっと触れられそうで触れられないんだよね。その人にも大切な人がいるみたいだし……」「そうなのか……」 これまで感じていた空気が、夕陽ごと一気に沈む。 女夜叉のせいで足止めを食らってしまった為、夜分に押し掛けるのは良くないと判断した二人は、山を登らず近くにあった簡易的な宿に身を寄せた。それぞれの部屋から大きな溜め息と鼻を啜る音が聞こえていたのは、誰も知らない。 重苦しい夜長がようやく明け、澄んだ朝がやってきた。 何事もなかったかのように二人はいつも通りの雰囲気で山を登り、無事|金王《ジンワン》医官の所へ到着した。 山奥に聳え立つ一軒の屋敷の外は、ありとあらゆる薬草で溢れかえっており、独特な匂いが漂っていた。簡易的な木の門の前で二人の姿を捉えた銀髪の長老・金王は、持っていた桶を真ん中で持って小さくお辞儀をする。|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》も丁寧に拱手し、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の紹介でここを訪ねたと話した。「はい。伺っておりますよ。天台山の若き道士が来られると。あなたが、あの|豪剛《ハオガン》の……。どうぞお二人ともお入りください」『お邪魔します』 同時に発した言葉が重なり、二人は互いを見遣る。 墨余穏は

  • 天符繚乱   第十七話 金華の猫

     |黄林《フゥァンリン》の後についていくと、|金龍台門《きんりゅうだいもん》の正門付近で、松明を持った人集りが見えてきた。 「何が起きたんだ?!」  眉間に皺を寄せながら|墨余穏《モーユーウェン》が黄林に尋ねると、黄林が口を開く前に|金冠明《ジングァンミン》が先に口火を切った。 「ここ最近、|金華《きんか》の猫という人間に化けた妖獣がこの周辺に出没し始め、男なら男根と金品を奪い、女なら下腹部の人肉……特に子を孕んでいる女子は母胎ごと取られるという悲惨な事件が頻発している」 「はぁ……」  |墨余穏《モーユーウェン》は顔半分を歪ませながら、その悲惨な現場を目撃する。丸裸の男が横たわり、下半身から悍ましい量の鮮血を漏らしている。まるで、血溜まりの上で身体が浮いているかのようだ。墨余穏は思わず、大事な部分を隠すかのように、身体をくの字にして縮こまった。「|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていた、根こそぎ取られるというのは、こういう意味なのか……」 顔を歪ませながら|墨余穏《モーユーウェン》がそう言うと、背後にいた|師玉寧《シーギョクニン》が死体を見ながら呟いた。「しかし、凄い血の量だ。余程、男に強い怨みがあるのだろうか?」「いや、まだ男ならこの程度で済みますが、孕んだ女子の死体はもっと悲惨ですよ……。顔も抉られ、原型を留めません。あれは言葉を失うぐらい、目も当てられませんよ……」 |金冠明《ジングァンミン》は俯きながら、そういう死体を幾つか見てきたと言う。俯く金冠明を見たあと、|墨余穏《モーユーウェン》は目線を死体に向けた。この死体と金華の猫との間に何があったのかは分からないが、少なからず金華の猫は人間の心を得てして、男女問わず人間に強い怨みを抱いていることは間違いない。金と男女の縺れは人の人生を狂わすと、|豪剛《ハオガン》が生前言っていたのを思い出し、墨余穏は小さく息を吐いた。  墨余穏はそっと、一途に想う恋の相手に視線を向ける。 その相手もまた、何かを思うように死体を見つめていた。「|水仙玉君《スイセンギョククン》。何か気になることでもあるのですか?」 |金冠明《ジングァンミン》が|師玉寧《シーギョクニン》に訊ねると、師玉寧は死体を見つめたまま小さな声で呟いた。「いや、昔を思い出しただけだ……」 聞いていた|墨余穏《

  • 天符繚乱   第十六話 金龍台門

    (何で先に行っちまったんだろ、|賢寧《シェンニン》兄は……。俺、何かしたのか? ) |墨余穏《モーユーウェン》は段々と親鳥に置いていかれた雛鳥のように寂しさを募らせ、怒りよりも疑問が膨れ上がってきた。|師玉寧《シーギョクニン》の行動が全く理解できず、|墨余穏《モーユーウェン》は自分に何か非があったのか、何か怒らせるようなことをしたのか、考えを巡らせる。 (行きに俺が冷たくあしらったからか? もしかして昨日の夜、飲めなかった一葉茶を庭先にこっそり捨てたのを知っているとか? いや、そんな単純じゃないか。ん〜……、あ、そうか! |香翠天尊《シィアンツイてんずん》が俺に触れたから、それで機嫌が悪くなったのか! うん、それしか考えられない。ったく、図体はデカいくせに、そういうところは小さいんだよなぁ〜) 勝手な理由を見つけると、|墨余穏《モーユーウェン》は妙に自分で納得してしまい、それ以上追求するのをやめた。 |師玉寧《シーギョクニン》のことを考えていたら、あっという間に金龍台門へ繋がる賑やかな下町に到着し、|墨余穏《モーユーウェン》は久しぶりに絢爛華麗な雰囲気を肌で感じた。 金龍台門のお膝元となるこの下町は、昔から商いの町として知られ、出店で賑わっている。華やかさゆえに妓楼も多く存在し、客を捕まえやすいのか、昼夜関係なく酒楼の前で首元をはだけさせた若い女たちが立っている。|墨余穏《モーユーウェン》の目の前にも、待ち構えていたかのように一人の仙姿玉質な妓女がふらふらとやって来た。 「そこのお兄さん、お一人? もし良かったら私と一緒に遊ばない?」 「あははっ、美人さんからのお誘いを断るのは忍びないけどごめん。今から金龍台門へ行かなきゃならないんだ。それに、先に行っちまった美人を今度こそ怒らすとまずいから、もう行かないと」 「そっかぁ〜、お兄さん彼女いるんだぁ〜、残念! でも、ちょっとだけ。だめ?」 妓女は墨余穏の腕を掴み、大きな果実のような胸を擦り付けながら、上目遣いで引き止める。 「ごめんよ、お姉さん。他を当たってくれないか」 |墨余穏《モーユーウェン》は苦笑いをしながらそっと腕を引き抜き、駆け足でその場を後にした。 (危ない危ない。こんな所で道草食ってる場合じゃないんだ。早く|金冠明《ジングァンミン》のところへ行かないと、待た

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status